2019年2月18日月曜日

第五回 スペイン情熱レポート「アンテセソル編」


連載

第五回 土木的、地球の歩き方 スペイン情熱レポート(2019/02/18)




こんにちは、
第五回もお付き合いください。





以下に概要になります。


Abstract
第四回で見た、イベリア半島における農耕社会。しかし、イベリア半島をめぐる探検のその先には狩猟社会が待ち受けていた・・・。第五回ではこうした人類の歴史をさらに探検し、アルタミラ、アタプエルカ、ジブラルタル海峡をめぐりながらイベリア半島の人類の起源を探りに行く。それとともに、我々ホモ・サピエンスの強みは何であったのかを考える。そして最後に、現代へと時代を一気に揺り戻し、人類の歴史の探検を通して、僕たちに言えることは何かを考察してみることにする。



なお、本五回が最長となります。
どうぞお付き合いください。






第五回、今回のテーマは、
「アンテセソル」


これでいきます。









まずは前回までのおさらいから。



日本とスペインの時代年表をご覧いただこう。








過去5000年以上前にさかのぼる日本とスペインの時代対応表を作成してみた。

3回でも触れたが、時代の流れは、10000キロ離れたイベリア半島でも変わらない。
ただし、日本はやはり世界の端くれ、流れから数百年遅れるのが常らしい。







今回は、その対応表よりも前の話。

農耕文化がオリエントより伝来する紀元前6000年ごろよりも前に時代をさかのぼり、イベリア半島における狩猟社会に目を向けてみる。








狩猟社会における遺跡としてスペインで最も有名な遺跡が、






スペイン北部にあるアルタミラの壁画遺跡だ。


なお、写真はマドリッドの国立考古学博物館にあるレプリカ。
現在、壁画保存のためアルタミラの洞窟に入ることはできない。




ちなみに、我々は生物学上、ホモ属の中のサピエンスという種に分類されるため、ホモ・サピエンスと呼ばれており、我々の祖先は20万年前ごろに地球上に登場したといわれるが、



先の壁画は、我々ホモ・サピエンスの中でも、現在アルタミラをはじめとする種々の洞窟があるスペイン北部に住み着いた、クロマニヨン人と呼ばれる人々が、12000年前ごろ残したものとされる。




岩肌の凹凸を利用したこの特徴的な壁画は、ホモ・サピエンスの狩猟社会における限られた遺跡の一つだが、これが意味するところはいまだ解明されていない。










さて、

我々ホモ・サピエンスは、この現代において、唯一の人類である。

驚くべきことに、我々のほかにおいて人類種はいない。

かつては我々ホモ・サピエンスにも、たくさんの兄弟がいたのにもかかわらず。
ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトス、ホモ・エルガステル



ホモ・エルガステルの復元模型(人類進化博物館、ブルゴス)


彼ら、ホモ・ハビリスに始まるホモ属は、250万年前にアフリカの地に登場した。

それよりもっと前、500万年前よりも前のアフリカには、アウストラロピテクス属といった、もっとサルに近い遠い親戚たちがアフリカに登場していた。





アウストラロピテクス・ボイセイ(人類進化博物館)



こうしたアウストラロピテクス属からホモ属の2つの属の移り変わりの中で、彼らは直立二足歩行をはじめたが、それによって産道が狭くなると、発育の手助けが必要な状態で出産せざるを得なくなり、男女で協力し合う社会性が生まれ始めたともいわれる。
また両手が空き、高度な石器製造技術を持つようになり、そのうち火を使用するようになると、食物の消化が良くなって腸を長くしなくてもよくなり、その代わり脳容量が増大したという。


人類の進化系統図の一例 (人類進化博物館)



いずれにせよ、そうした発達の中で氷河期に入った。氷河期に入り砂漠化などが進む中で、社会性を保ち、脳容量を支えるだけの食糧確保が、アフリカだけでは厳しくなった。そのためアフリカで生まれたホモ属たちは、次々にユーラシア大陸へと進出し始めた。



出アフリカの図
(http://livedoor.blogimg.jp/kagaminokun1/imgs/0/b/0b139ef5.jpg)




はじめてアフリカを出たのは180万年前ごろだったと言われる。


そして、80万年前、初めてホモ属の一種が、中東を経由し、イベリア半島に到着した。










彼らの名を、ホモ・アンテセソルという。














ホモ・アンテセソル(人類進化博物館)








スペインの中央より北250kmのところに、ブルゴスという街がある。




ブルゴスの街。奥に見えるのがスペインの三大聖堂の一つ、ブルゴスの大聖堂







そしてブルゴスからさらに北西約13kmにある、アタプエルカという小さな村に、その遺跡はある。
















アタプエルカの人類化石出土遺跡だ。










アタプエルカにあるいくつかの発掘現場の中でも、グラン・ドリーナという現場の、TD1という80万年前の地層で、ホモ・アンテセソルの人類化石が見つかったのだという。


80万年前という値は、ヨーロッパの考古学に重大な衝撃を与えた。

これまでヨーロッパで見つかった人類化石の中でも最古のものであったからだ。





この地は隆起した石灰岩質の丘を形成する。
この丘を流れていた太古の小川は、長い年月をかけこの地を浸食し、洞窟を形成した。
3700mも続くというこの洞窟に、ホモ・アンテセソルたちは住み着き生活を始めたという。








ちなみに、「アンテセソル」とはスペイン語でantecesor

すなわち「先駆者」を意味する。







ホモ・アンテセソルは、先陣を切ってヨーロッパ大陸、そしてイベリア半島に進出し、こうした洞窟に住み着いた。

すなわち彼らは、イベリア半島の歴史を始めた先駆者であったのだ。









さて、ブレイクがてら、

最初で最後の新企画「ナチュラレーサ・エスパーナ
イベリア半島で見つけた自然を大特集する。

人類の歴史には関係がないが、この石灰岩の浸食を示す自然地形の遺産として、
第四回で訪れたアンテケラの街より10㎞南にある、エル・トルカルというところを紹介する。







層状に刻まれた石灰岩の奇岩群。

元々、2億年前のジュラ紀のころ、この地域は海であった。海底には海の生き物の死骸などが堆積し、炭酸カルシウムなどを多く含む石灰質の地層を構成した。

しかし2000万年前に土地が隆起し、石灰岩の岩山が地上に現れた。










この岩山のうち、侵食されやすい石灰質の相のみが削られていったため、このような層状の奇岩となったという。

いずれにせよ、イベリア半島の大地は、大部分を石灰岩でおおわれ、実にアメージングな自然景観と先の人類歴史を生み出してくれたということだ。




お次は、こちら、スペインの紅葉。
マドリード王室の宮殿があるアランフエスの庭園だ。





奥に見えるのが王宮



スペインにも、はっきりと、四季がある。






どこか、日本に似た部分を感じた、スペインの紅葉である。









さて、人類進化に話を戻したい。


アタプエルカでは、80万年前のホモ・アンテセソルだけでなく、35万年前のホモ・ハイデルベルゲンシスの化石も多く出土している。

そして、500万年前以上前にさかのぼる人類の歴史は最終的に、ホモ・ハイデルベルゲンシスから別れた、あるふたつの種に集約した。





ホモ・ネアンデルタールス(ネアンデルタール人)とホモ・サピエンスである。


ネアンデルタール人とホモ・サピエンス




ホモ・アンテセソルに始まるイベリア半島の人類の進化の歴史もまた、彼らふたつの種が主役となった。


20万年前には、ネアンデルタール人はイベリア半島に住みつき、狩猟生活を始めていた。

一方ホモ・サピエンスは、15万年前ころアフリカに登場し始めた。
そして4万年前ごろ、ホモ・サピエンスもまた、イベリア半島に到着した。


しかし、3万年前ごろになると、ネアンデルタール人は忽然と姿を消してしまったのだ。




一体何があったというのか。








この海に突き出た岩山は、スペインとアフリカとの間にある海峡の名前にも使われたジブラルタルだ。




このジブラルタルでは、ネアンデルタール人の住居跡といわれる洞穴跡が残っていて、
彼らはここで25000年前まで生き残っていたという。





すなわち、このとりつくような岩山に、残りわずかとなった最後のネアンデルタール人たちは、ホモ・サピエンスの猛威の影で何とか生き延びていたというのだ。






ネアンデルタール人はホモ・サピエンスよりも脳容量が大きく、筋力もあり体も屈強であったという。

それなのになぜ、ネアンデルタール人は死に絶え、ホモ・サピエンスが生き延びたのか。






これについて、現在でも数多くの議論が巻き起こっている。


こうした種々の仮説がある中でも、一つの面白い指摘がある。

ホモ・サピエンスが、言語を他のどの種よりも高度に発達させたからだというものだ1)



この説によれば、ホモ・サピエンスは、
言葉を、単に「敵がいる」などといった「情報伝達」の役割を超え、
「噂話」さらには、「作り話」ができるまでに発達させることができたのだという。
そして、こうした言葉を用いて様々なことを想像できるという力によって、彼らの社会の中で「虚構」を共有し、見知らぬ人同士であっても協力できるようになったというのだ。


通常どんな動物集団でも150もまとまってしまうと、その集団は小集団へと分裂するという。しかしながら、ホモ・サピエンスはこの言葉による「虚構」によってそれ以上の数の人のまとまりを形成することが可能になった。そのため、ネアンデルタール人がいくら屈強であったとは言え、ホモ・サピエンスはネアンデルタール人を数で圧倒し、死に追い込むことができたのだという。
我々日本人も、日本人であるという我々が作り出した虚構によって、およそ一億人が一つにまとまっているという事実を考えれば、この指摘も真実味を帯びてくる。


いずれにせよ、我々ホモ・サピエンスの最大の強みは、脳容量でも筋力ではなく、
「想像力」であったというわけだ。





もう一つ面白いことに、先のジブラルタルは実は、イベリア半島の南端に位置しながら、スペイン領ではない。
ここだけはイギリス領なのである。



ジブラルタルの国境付近。スペインの旗の奥はイギリス。大勢が通勤で行き来している


マドリードの王室の継承者をめぐり、イギリス・オランダなどと、スペイン・フランスの間で起こった覇権戦争の後に結ばれた1713年のユトレヒト条約で、ジブラルタルの地はイギリスに割譲されたのだ。




ここで一度、我々の最大の強み「想像力」をヒントに、これまでの歴史をたどってみる。

25000年前、ホモ・サピエンスが想像力を駆使し、ネアンデルタール人を駆逐した。1万年余り経つとその想像力は、壁画に投影され、狩猟社会の繁栄を誇った(第五回)。さらに5000年経つと農耕文化が導入され、ドルメンに示す人口増加と都市・文化の発展を想像するに至った(第四回)。こうした民族はしだいに統一へ向けて歩き出した。べトン族の残した牛の像に始まり、ローマ文化の来襲、イスラム勢力の来襲と、それに対応するレコンキスタ。そして最終的にスペインは統一された(第二回・第三回)。人類の想像力はこれだけにとどまらなかった。スペイン人は新大陸の存在を想像し、大航海時代を築いた。しかしここで得た富の多くは王宮で浪費された(第一回)。一方でイギリスやオランダは富を科学技術に投資した。すなわち未来の繁栄を想像する資本主義を産業推進の原動力とした。だから18世紀初め、スペインはイギリス・オランダに敗れた。世界の覇権はイギリスに移った。交通の要所であるジブラルタルもまた、スペインからイギリスに割譲された。





ジブラルタルの岩山を登りながら、今でも数多く残るイギリス軍の設備を発見した。






軍港地であり、現在は貿易の拠点ともなっているジブラルタル。




こうしてみると、ホモ・サピエンスの想像が生み出したふたつの帝国が、世界の覇権をかけ争った海峡の要所ジブラルタルに、ネアンデルタール人の最後の住処があるというのは非常に面白い。








そしてまたこの現代。

AIIoT、ブロックチェーン
G、バーチャルリアリティー、量子コンピュータ、ゲノム解析・・・
数多くの技術革新の影で、常に我々の想像力が問われている。
そしてまたグローバル化の中で、こうした技術をいかに他に先駆けて開発し、使いこなすことできるかが勝負となっている。



いつの時代も、想像力を活かせた者が勝ち、活かせなかった者は滅びる。
これは人類歴史の探検が教えてくれた教訓だ。






スペインを眼下に望む、ジブラルタルの景色












我々は将来、技術者、科学者、あるいは次世代のリーダーとして、いったい何を想起できるのか。


生き残りをかけて次の時代を作る、「アンテセソル」でなければならない。










とうまくまとまったところで、今回のレポートとさせていただく。




第五回の舞台(アルタミラ・アタプエルカ・ブルゴス)


1)サピエンス全史 上下 (ユヴァル・ノア・ハラリ著)






最後に、興味がある方はぜひ!


語学 de マドリ


今回はスペイン語の、「名詞の性」についてです。

日本語、英語を勉強してきた人にとっては、なじみのない「名詞の性」ですが、
名詞の性がある言語はたくさんあります。
名詞に男と女があるというわけです。

スペイン語は「男性名詞」、「女性名詞」の二つがあります。
またロシア語みたいに中性名詞を含め三つある言語や、アフリカの諸言語はさらにたくさんあるものもある言語もあります。

スペイン語の場合、基本は、「最後がoや子音」で終わったら「男性名詞」、「最後がa」で終わったら「女性名詞」です。

例えば
Sol(太陽)は男性名詞、Agua()は女性名詞、といった感じ。


ただし、言語には例外がつきもの、例えばこんな例外が、、、

Problema(問題)は、最後がaなのに男性名詞、

というわけで、
「¡El problema es masuclino! (問題は男性なのだ)

となる。


では「Solución(解決)は?          

最後が子音なので、男性名詞、


かと思いきや、これは女性名詞なのだ。


というわけで、

「¡El problema es masuclino y La solución es siempre femenina!

「“問題”は男性なのであって、“解決”はいつも女性」なのだそうだ。

全国の奥様方から賛同の声が聞こえてきそうである。



一方で、

「なんだよそれ・・・」


と落胆してしまった男性諸君。

これは「例外中の例外」ということを忘れてはいけない。










それではまた次回、もしあれば! Hasta luego!

2019年2月4日月曜日

第四回 スペイン情熱レポート「牛をめぐる冒険編」


連載 

第四回 土木的、地球の歩き方 スペイン情熱レポート(2019/02/04)




こんにちは。
12月に日本にすでに帰ってきておりますが、情熱リポートは続きます。




第四回、今回のテーマは、
「牛をめぐる冒険」



これでいきます。






第四回以降、やや内容が長くなりますので、概要を載せることにしました。






Abstract:

スペインを象徴する動物といっても過言ではない牛。そして、牛を追いかけながら、次第に発見していくことになる、スペインの大地のパワー。第四回では、この大地のパワーを存分に感じていただくとともに、第一回から第三回までで見た歴史よりも前の時代へとさかのぼり、コンスエグラ、アビラ、アンテケラの街をめぐりながら、この大地のパワーの原点を見つけに行く。










ところで、、、









スペインと言えば・・・。

















闘牛だ。

(画像提供:同研究室のイタリア人、ステファノ)

写真はマドリッドにあるラス・ベンタス闘牛場



闘牛のシーズンは10月末までとなっており、見そびれてしまったが、闘牛は牛の年齢によっても興行が分かれており、写真は3歳くらいの若い牛を対象とする闘牛興行だという。









 アンテケラという小さな街にある闘牛場




ちなみに、闘牛の起源は定かではない。

レコンキスタ時代にキリスト貴族が始めたという説がある一方で、

古代ローマ時代にローマの各地の競技場で行われていたとされる人間と動物の決闘が、
植民都市のスペインにも伝わったという説もある。









 アランフエスという小さな町にある闘牛場(どこにあるでしょう)






今でも、どんな小さな都市に行っても必ずと言っていいほどある闘牛場。




スペインでは、この闘牛が古代ローマからスペインの各都市に伝わり、連綿と引き継がれる文化になりえたのだと、個人的には理解したい。








その証拠に、牛が人々にとって身近である様子をご紹介する。





中距離電車の車窓から






この黒く見える一つ一つが牛である。


「超放牧状態」というべきか。














牛以外の家畜もいる。







こうした、自然の中での営みは、放牧だけではない。












全面に広がるオリーブ畑。










ブドウ畑もある。

奥に白く見えるものの中には、家畜の飼料となる草が入っている。







これらは、スペイン中央部、コンスエグラという村に向かう道中で見た、大地のパワーだ。










 コンスエグラの村の全景







一面が畑でおおわれた息をのむ景色だ。




無限に広がる大地の中で、農作物の生産が営まれ、牧畜も盛んにおこなわれている。
スペインは農業国だということが改めて認識される。




実際にスペインでは、野菜や果物などの一次生産品が、日本と比べて断然安い。
留学当初、あまりの安さに、将来ここで暮らそうかと思ったほどだ。







大地から生み出される恵みから垣間見たイベリア半島の磐石さ。



これこそが、スペインの底力だと思った。
















さて、

こうした自然の営みから、牛などの家畜を、信仰のモチーフにした文化が現れた。













(参考:https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=738803)


Vetones(べトン族)と呼ばれる民族が残した牛の石像である。









古代ローマの植民都市時代(紀元前2世紀~紀元後3世紀)よりさらに前の時代。

紀元前6世紀から紀元前5世紀に、スペインの中央よりやや北西部の地に、Vetones(べトン族)と呼ばれる人々が暮らしていた。






紀元前5世紀から紀元前1世紀を示すイベリア半島の地図(国立考古学博物館)







この時代はイベリア半島における、青銅器時代、あるいは鉄器時代であった。
べトン族だけではなく、種々の民族がイベリア半島に住み、地中海を経て伝わってきた青銅器や鉄器を用いた、発達した農耕・牧畜文化を営んでいた。









そしてまたある意味でこの時代は、イベリア半島が初めて、種々の勢力によって色分けされた時代であるとも言えよう。




















紀元前5世紀というと、日本はまだ縄文時代であり、農業すら伝来していない(諸説あり)。


しかしスペインではすでに農業が伝わり、日本で言えば、邪馬台国みたいなクニみたいなものができてくる弥生時代から、

各地に大王(おおきみ)による地域的まとまりが出てくる古墳時代(紀元前4世紀ごろから紀元後3世紀ごろ)に相当する時代が、
すでに紀元前5世紀に現れているといえるかもしれない。











さて、このべトン族をはじめとする青銅器・鉄器時代の民族たちは、農業や牧畜で生まれた富や人口を守るため、
石垣を積み上げて作ったテリトリーを形成し暮らしていた。





紀元前3世紀ごろのべトン族らによって築かれたとされる村の模型
(国立考古学博物館)










現在、べトン族が暮らしていた地域の中心都市としてアビラという街がある。

この街の周辺でも、写真の模型に示すテリトリーが形成されたとされる。






先ほどお見せしたべトン族による牛の像は、

村を形成した人々によって作られた、繁栄の象徴でもあったのだ。









現在でも、アビラという街の周辺には、紀元前5世紀ごろに作られた牛の像が、いたるところで発見される。









写真中央部、アビラの街に鎮座する牛の像









そして、このアビラの街では、先の石垣によるテリトリーの建造が、時代を超え、巨大な城壁として進化を遂げた。






















これがアビラの城壁である。




全長2.5km、高さ約12mの、街を覆い囲む巨大な城壁。



紀元後11世紀、レコンキスタ時代にキリスト教徒がイスラム勢力より奪還した際に、平原に広がるこの地を守るために建造された城壁。

世界に残る城壁の中でも、これだけ完全な形で残る城壁は、他に例がない。




圧巻の城壁だ。










なお、この城壁からはローマの痕跡も見ることができる。








こちらがその跡である。石垣の一部に時折見える、何かの道具として彫り込んで作られた石。

キリスト勢力は、イスラム勢力駆逐後、すぐさま城壁建設に着手するため、
ローマ時代の石塀を利用したのだという。







ここで一回ブレイクタイム!
今週のマドリメシ


今回は、スペインの日本食をご紹介!



まずはROLLING SUSHI RESTAURANT(回転寿司屋)!!
















回っているのは、少し米がゆるい寿司。チーズが入っている寿司。













なんかぜんぜん違う。

しかも、寿司よりも、チキンや揚げパンもどきやらのほうが数多く回転していた。
もはや何でもあり。




人々はこれを寿司屋と勘違いするのだろうか。
















ラーメン屋もマドリードには多数存在する。



しかし、なぜかちょうちんが逆さまだ。
















アジア人が経営するある店では、日本食を謳って中華の味が提供されていた。




スペイン人からすれば日本も中国も違いが分からないようだが、
それをタネに商売するのはいかがなものか。







スペインでは、サブカルチャーなどの影響で、みんな驚くほど日本のことが大好きだ。

これは感謝すべき事実だ。




しかし、日本食や文化がやや誤解されながら受容されているのも事実だ。





これは日本文化の、浸透なのか、交流なのか、俗化なのか?

少々考えさせられる、今週のマドリメシでした。














さて、

これまで第1回からここまで、イベリア半島の歴史をたどりご紹介してきた。

紀元後16世紀の大航海時代、11世紀ごろから激化したレコンキスタ、
8世紀に始まるイスラム勢力の支配、5世紀からの西ゴート王国、
そして紀元後0年前後の古代ローマ植民都市時代。



そして今回、べトン族に代表される、紀元前2世紀以前の青銅器時代、鉄器時代。

ちなみに、金属利用が始まる時代は紀元前3000年ごろまでさかのぼり、
その先は石器時代へと続いていく。






我々日本人にとって、ローマ時代と聞くだけで、十分古い時代のように思われる。

しかしスペインでは、それよりも前の時代が、当たり前のように、
まるでボーナスステージみたいに次々と現れる。













そしてべトン族よりも前に存在した時代、










それが「巨石文化」である。





紀元前6000年前から紀元前3000年前頃に栄えたとされる巨石文化。

イギリスのストーンヘンジなどが有名であるが、この巨石文化の痕跡をスペインでも発見した。





















アンテケラという街にある、ドルメン遺跡である。



まるで古墳のようだが、あくまでこれは5000年前のものだ。紀元後500年のものとはわけが違う。





ちなみに、ドルメンとは日本語では支石墓という。

支石墓とは、巨大な天井石を、複数の巨大な石を壁や支柱で支えて作る墓のことである。








ドルメンの内部。この遺跡は2016年に世界遺産にも登録された。







この時代と時を同じくして、紀元前6500年から紀元前4500年頃、
ヨーロッパに農耕文化が普及したという。









農耕文化は人類進化上の革命といわれる。

なぜなら農耕によって人々は狩猟をやめ、ひとところに定住するようになった。

そして人口を抱えられるようになり、
都市ができ、文化ができるようになったからである。









アンテケラの街の様子。スペイン南部にある、穏やかな街







ドルメンに見られるような墓は、
こうした都市・文化形成史上、非常に重要な存在意義を有する。

人々の中に権力差があったということ、
そして祭祀や呪術的な文化が存在していることを示しているからだ。






ちなみに、なぜ人々は巨石にこだわり文化を形成したかはいまだに謎に包まれている。









しかし、ただ一ついえるのは、これまで見てきたような、イベリア半島における大航海時代にいたる繁栄への人間の営みは、ここ、ドルメンから始まったということだ。











ドルメン遺跡から見える山々。左手の岩山はかつて信仰の対象にもなった








そして日本に稲作が伝わるよりもずっと早く、
スペインでは農耕・牧畜文化が栄え、それが現在に見た、あのスペインの風景にもつながっているというわけだ。
















ウシを追いかけていたつもりが気づけば、ヒトの営みを追いかけてしまった。



しかし、

あのスペインの大地のパワーの原点を見つけられたところで、今回のレポートとさせていただく。







第四回の舞台(コンスエグラ・アビラ・アンテケラ)







次回も気長にお付き合いください!

それではまた! Hasta luego!!