連載
第三回 土木的、地球の歩き方 スペイン情熱レポート(2018/11/09)
さて、第三回のテーマ
「レコンキスタ」、これでいきます。
二回連続の横文字で恐縮です。
レコンキスタとは、一体何なのか・・
スペイン語で「Reconquista」
Conquistarが英語のConquerと同じで、克服する・征服するという意味である。
すなわちレコンキスタとは「再征服」を意味する。
では誰が、何を「再征服」したのか?
第三回では、その真相を追いかけていきたい。
まずはイベリア半島の地図をご覧いただこう。
一例として1031年の頃のイベリア半島の地図を取り上げる。
ご覧のように、ここには現在のスペインの形はない。実際に、現在のようなスペイン王国が誕生するのは、1479年になってから。それまでこのイベリア半島は、様々な国によって支配され、戦いの舞台にもなってきた。
この地図を、ヨーロッパを越え、日本まで拡大してみる。
参照:https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-71-f4/nakagawa5939/folder/168062/34/36651534/img_3?1360156320
第二回では、最後にローマ時代の遺構をご覧いただいたが、
そのローマが東西に分裂して、崩壊に向かう、紀元後4世紀ごろを想像していただきたい。
このころ日本はまだ、倭と呼ばれていており、
中国大陸では、北方の遊牧民族の勢力拡大によって、五胡十六国時代と言われる混沌の時代に突入していた。
そして、実はこの北方の遊牧民族の拡大はヨーロッパ方面にも広がっていた。
北方民族の一つ、フン族が西へと移動し、ゲルマン民族の土地に進出した。
そこで起こったのが「ゲルマン人の大移動」である。
ゲルマン民族は、これまで住んでいたヨーロッパ北部の地を追われ、ヨーロッパ西部へと移動したのである。この大移動はおよそ5世紀ごろから始まった。
この大移動と同時に、弱体化しつつあった西ローマ帝国は消滅し、地中海を中心にヨーロッパを支配していたローマ時代が終わりを迎えた。
これに代わり、ゲルマン民族が、西ローマ帝国からのキリスト教の流れを受け継ぎながら、西ヨーロッパの土地に新たな国を建国していった。
そのうち、ゲルマン民族の一派であるゴート族が、イベリア半島の地に建国したのが、西ゴート王国だった。
ところが、8世紀初め、この西ゴート王国も滅亡した。なぜなら、アフリカを経由し、ジブラルタル海峡を越えて、イスラム勢力が入ってきたからである。
こうしたイスラム勢力は、信仰の自由を認めるなどの寛容な政策などにより、イベリア半島を瞬く間に支配するようになり、様々な王朝を建国していった。
また、これと同時に8世紀から、キリスト教勢力によって、このようなイスラム勢力に対抗する動きが、イベリア半島を中心に見られるようになった。11世紀にはこの動きが活発化したのだが、こうした動きのことをキリスト教勢力による国土回復運動、すなわちレコンキスタと呼ぶ。
こうした動きの中で、キリスト勢力はイベリア半島内にある主要都市を、段階的に奪還していった。最後までイスラム勢力が支配していたグラナダという地を奪還し、レコンキスタが完了するころには、すでに15世紀になっていた・・・
さて前振りが大変長くなったが、
今回はそうした都市の中でも、マドリッドの近くにある、「トレド」と「クエンカ」にスポットを当てていきたい。
まずはこの写真を見ていただきたい。
トレドの街の全景だ。
三方向を川で囲まれた場所に位置するトレドは、自然要塞として完璧な立地である。
写真中央やや右よりの最も高い位置にアルカサル(王の居城)、
中央やや左寄りにカテドラル(キリスト教の聖堂)が見え、街全体からは何となく中世の雰囲気が漂う。
一方で、この写真は、トレドの街の一角。
注目していただきたいのは、写真中央やや左寄りの、かぎのような形をした通り道。
実は、これはイスラムの建築様式の一部、
ここトレドでは、イスラム文化とキリスト教文化が、街の中で融合しているというわけだ。
また、「クリスト・デ・ラ・ルス」という面白い建物を見つけた。
キリスト教徒によって教会として使われたが、もともとは999年に建設されたモスクあったという。屋根部分がモスクの特徴的な様式で、壁面部分は二つの文化の融合であるムデハル様式の特徴の一つである幾何学模様が見られる。
こちらは、レコンキスタ終了後に建てられたという教会で、一階部分はゴシック建築だが、
二階に上がって天井部分にムデハル様式の模様が見られる。
二つの様式が、喧嘩せずに共存している。
トレドを離れ、クエンカという山地の中に立つ街にも行ってみた。
こちらがこのクエンカの街の全景である。
大自然の中に現れる街、そのダイナミックな外観から、断崖に浮かぶ家々、魔法にかけられた街、などとして有名である。
いずれにせよ、この街もまた中世の街並みが見られる。
もう少し近くによって見てみる。
この写真で橋中央の上に見えるのが、クエンカで有名な「宙吊りの家」
であるが、注目は、その右側に少しだけ見える城壁。
岩肌に隠れて見えていなかったが、実はこのクエンカもまた自然の中に建てられた要塞なのだが、この城壁はイスラム勢力が建てたものである。
ちなみにこの周辺はロッククライミングの一大スポットにもなっていた。
その後クエンカの街を歩いたが、トレドとは違って、街中ではこの城壁のほか、トレドのようには、なかなかイスラムの名残を発見できなかった。
ようやく、科学博物館の地下に、イスラム時代の貯水槽だという遺構を発見した。
ちなみに、こうした街から、イスラム時代よりさらに前の、ローマの遺構を見つけることは容易ではない。セゴビアのアルカサルの地下の遺構(第二回参照)でさえ、最近になって発掘されたくらいである。
わずかながら、トレドの一角で、ローマの共同浴場跡が発見できた。
このように、街は何度も何度も塗り替えられる。
古いものは、時に壊され、古いものの上に新しいものが建てられていく。
一方で、うまく融合し、現在にその文化的価値を伝えるものもある。
ローマからイスラム、イスラムからキリスト
こうした古代から中世にかけての、文化の攻防・交流が、ある一つの街の中で感じることができる場所は、日本ではあまり見られない。
イベリア半島が与えた時空間的な文化の交差は、スペインならではの光景である。
最後に中世という時代を概観して終わりにしたい。
11世紀より活発化するレコンキスタと呼ばれる運動の中で、様々なキリスト教勢力が生まれ、あるものは王国を築き、イスラム勢力を駆逐していったわけだが、レコンキスタが進むにつれ、こうした王国は徐々に統合されていく。そして最後に、第二回で書いたように、カスティーリャ王国とアラゴン王国が統合しスペインが統一(1479年)され、イスラム勢力の砦グラナダを陥落させ、レコンキスタが終了した(1492年)。
この歴史は、日本の中世や戦国時代にもよく似ている。
1185年に始まる鎌倉時代や室町時代は(あるいはその前から)、宗教的背景はあまりないにせよ、武家と天皇家の間で対立があり、そうした権力をめぐって武家の中でも争いを行いながら、各地に守護大名が形成され、次第に自治性を高め戦国大名に成長し、戦国時代へと突入する。最終的に1600年の関ケ原で東西に分かれて戦い、徳川による繁栄の時代がおとずれる。
中世という時代。様々な権力構造の中で、ある地域が統一へと向かう時代。
日本とスペインで存在した文化は違えど、歴史の流れは変わらない。これもまた面白い発見である。
スペインにとって中世の次に現れた繁栄の時代は、大航海時代である。
それとともに、王宮はマドリッドに移った。第一回で見た王宮の豪華な装飾がその繁栄を物語る。そしてまた、マドリッドで見つけた日本の鎧が、この二つの国の歴史を結びつけてくれた。
第一回から第三回までが何となくつながったところで、今回のレポートとさせていただく。
第三回の最後は、新企画!!
「語学 de マドリ」
ここでは、経験や授業の内容の中で感じたスペイン語の面白さを共有させていただきたい。
ところで、みなさん、
スペイン語はとても便利な言語である。何が便利かというと、、、
①主語がイチイチいらないこと!
I haveもI eatも
Tengo、comoと一言、最後をoっぽくして、それさえ言ってしまえばそれでおしまいなのだ。
もう一つ便利なこと、それは、、
②ローマ字読みでオッケーであるということ!
しかし注意!
geやjaみたいにgとjに関しては、痰をガラガラするみたいにしながら、へ、ハ、と発音するものもある。
それと同時に、hは発音しなくなったりする。ホテルはオテルだ。
kiではなく、quiと書いて、キ、となったりするものもある。
曽川のニックネーム「Hiro」(ヒロ)は、スペイン語で書くと、ときに「Jiro」(ジロー)になってしまう。
あるいは曽川の下の名前のフルネーム「Hiroaki」は、「Giroaqui」(ヒロアキ)と書くこともできる。
ちなみに
Girar(ヒラル)という、回る(turn)を意味する単語がある。
I turnでGiro
Aquíはここ(here)
というわけで、日本中の「ひろあき」さんに朗報。
「Giro aqui」(ヒロアキ)は、スペイン語的には
「I turn here」であるので、
スペイン人はこの名前を速攻で覚えてくれます。
ただし、少し間抜けなイメージを与えてしまうので、その点はご自分でご克服くださいませ。
第四回も何かテーマを見つけてレポートします!お楽しみに。¡Hasta luego!
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